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楽天グループ社員に聞く 能登半島地震を体験した「その日、その後」【前編】地震発生直後の避難や避難所生活でみえたさまざまな課題とは?

楽天グループ社員に聞く 能登半島地震を体験した「その日、その後」【前編】地震発生直後の避難や避難所生活でみえたさまざまな課題とは?

公開日:2024年4月23日

2024年1月1日元日、能登半島地震が発生、甚大な被害が起こり多くの方々が被害を受けました。そして、今なお多くの被災者の方々が避難所で暮らすことを余儀なくされています(2024年4月23日現在)。
本記事では、この地震で被災した楽天グループ社員がそのとき何を思い、どのような経験をしたのか、能登半島地震を通じて見えた「その日」と「その後」を前編・中編・後編でお届けします。
【前編】では、地震発生直後の避難や避難所生活についてインタビューしました。

(Interview)楽天グループ社員 Ayanoさん/マーケティング戦略本部所属。2024年1月1日、石川県能登半島の実家へ帰省中に地震に被災。 (Interview)楽天グループ社員 Ayanoさん/マーケティング戦略本部所属。2024年1月1日、石川県能登半島の実家へ帰省中に地震に被災。

震度7の地震が起きたときの状況

―――2024年1月1日、Ayanoさんは石川県の能登半島にある実家に年末から帰省していたとお聞きしています。

Ayanoさん:そうです。普段は東京に住んでいまして、まさか数日の帰省のタイミングで大きな地震が起きるとは思いもよらず本当に驚きました……。

―――実際、能登半島地震が起きた16時10分ごろ、どのように過ごしていたのですか?

Ayanoさん:1月1日の夕方、私は実家の2階で妹と一緒にくつろいでいて、そのときに最初の震度5強の揺れが来ました。普段から地震の多い地域だったので「今回は大きい地震が来たね」という感じで、すぐに1階にいた家族の安全を確認するために姉妹2人で1階に降りたのですが、そのとき震度7の大きな揺れが起きたんです。

―――震度7の揺れが発生したとき、どのような行動をとったのでしょうか?

Ayanoさん:私は妹とすぐそばにいた父と3人で、近くにあったダイニングテーブルの下にもぐりこみました。立っていることはほぼ不可能で、自由に動くことはまったくできない大きな揺れでした。ダイニングテーブルも、足を掴んでいないとテーブル自体がどこかに行ってしまいそうで……。3人でテーブルの下で脚を掴み、はいつくばりながら、揺れが収まるのを待ちました。とにかく揺れている時間がすごく長かったです。

―――ご家族は皆さん無事だったのでしょうか?

Ayanoさん:揺れている中、ダイニングテーブルの下から家族の名前を呼びました。母と祖母の声はキッチンの方から聞こえていたんですけど、祖父の声は聞こえなくてとにかく心配でした。揺れが収まってすぐに外に出たのですが、近所の方が「おじいちゃんが埋まっていますよ!」と叫んでいて……。

建物の下敷きになった祖父の救出

―――おじいさまが建物の下敷きに!?救出できたのでしょうか?

Ayanoさん:幸い、近所の人がすぐ教えてくれたおかげで、家族みんなでなんとか祖父を引っ張り出すことができたんです。祖父は1回目の揺れがきたときに様子を見に外に出て、その後の震度7の揺れが来たときに近所の建物が倒れて、その下敷きになってしまったようでした。

―――助け出せたんですね。本当によかったです……。

Ayanoさん:ええ。祖父は倒壊した建物の下敷きになったものの、幸いにもその倒れた建物が「店舗」だったので一命をとりとめることができたのかもしれません。私の実家がある地方は重量のある「能登瓦」が有名で、一般の民家の多くはそれを屋根に使っているんです。だから、もし祖父が民家の下敷きになっていたら、その重さで救い出すことができなかったかもしれません。

―――お正月だったのでたまたま若い方が帰省していたんですよね?それが助けになった面はあったのでしょうか?

Ayanoさん:もしも私たちが帰省していなかったら、間違いなく私の祖父も祖母も自力では建物や建物の下から無事に出られなかったと思います。私の家は耐震構造だったので、なんとか建物の形は保っていましたが、家の中はあらゆる家具、家電が壊れましたし、ピアノなどの大きな家具も全て倒れました。キッチンに入る通路が倒れた家具で埋まっていたので、キッチンの中に取り残されていた祖母を引きずり出して助けました。

―――若い人が帰省していたタイミングだったことが不幸中の幸いだったのは、近所のほかの方も同じだったのでしょうか。

Ayanoさん:避難所で自分の小学校、中学校の同級生たちと会えたんですけど、聞いてみるとみんな家は全壊とか半壊でした。そう考えると、私たちのような若い世代がいなかったら、この状況下ではかなり厳しかったんじゃないかなって思いますね。

倒壊している民家

近隣は倒壊していない民家のほうが少なかったという(Ayanoさん撮影)

橋が落ちて、避難を想定した高台への道が絶たれる

―――ご家族を救出している間、地震の揺れはどうでしたか?

Ayanoさん:大きい揺れが来た後、祖父母を助けている最中もずっと揺れていましたね。常に揺れているみたいな状況でした。立っていられない大きい揺れも来ていたので、まずは周りの何が倒れてきても大丈夫な場所に逃げるのに必死でした。家の前に畑があり広い土地だったので、 いったんそこへ逃げ込みました。

―――揺れが落ち着いてから避難所にいったのでしょうか?

Ayanoさん:私の実家は海が近いエリアだったので「もし津波が来たら飲み込まれてしまうかもしれない」と分かっていました。だからとにかく高いところに逃げようとしていましたね。ただ、祖父母を連れて走って逃げるっていうのは難しいので、とにかく車で高い方に行ける道に手当たり次第行ったんですけど、私の実家は周りが川で囲まれているエリアだったので、全部橋が落ちちゃっていて、車が通れなくなっていました……。

―――では、家族で高台に逃げることはできなかったのですか?

Ayanoさん:はい、車で行こうとしていた高台へは移動できませんでした。実家の近くにも山があり、津波があったらひとまずはそこに逃げ込むことが日頃から想定されていたのですが、その山も土砂崩れが起きていて、登れる状況ではなくなっていて……。結果的に、高台へ逃げようにも逃げることもできない状況になってしまいました。

―――津波が来る可能性のあるエリアであることを知りながら、高台へ逃げることができなかったと……。それは、とても恐ろしい状況だったと思います。

Ayanoさん:結局、実家の近くの小学校に逃げこむしかありませんでした。そのころにはもうスマートフォンの電波は届いていなかったので、津波の情報も、津波警報が出ていたことも私は知りませんでした……。

車中からみた地震で倒壊した様子

車中からの様子(Ayanoさん撮影)

―――必ずしも安全な場所だったわけではないけれど、ひとまず小学校に避難したということですね。

Ayanoさん:逃げ場所の選択肢がほかになかったので、そこにいるしかありませんでした。その小学校は避難所ではありましたが、海抜がそれほど高くないので、「東日本大震災と同じレベルの津波が来たらもうだめだ……」ということはわかっていました。

―――ただ、津波は幸いにもこなかったわけですね?

Ayanoさん:はい。本当に運がよかったですが、津波による被害は免れました。私の住んでいるエリアは地震の影響で海底が大きく隆起したので、海岸の構造が変わったことにより津波を防げたようでした。普段は地元の人が海水浴する海だったんですけど、信じられないぐらい先まで隆起で海底がむき出しになっていましたね。

知り合いが家の下敷きに!助けられないジレンマ

「津波てんでんこ」はが幼いころから自身に根付いていた教訓のひとつだという

「津波てんでんこ」は幼いころから自身に根付いていた教訓のひとつだという

―――ケガをされていたAyanoさんのおじいさんとおばあさんのケガは大丈夫でしたか?すぐに手当てを受けることができたんですか?

Ayanoさん:祖母はそのキッチンにいるときに多分電子レンジとかが当たって、体にたくさん打撲がありました。祖父は倒れてきた建物の下敷きになっているので、全身ケガをしていました。そこまで重症ではありませんでしたが、手当てはすぐ受けることができませんでした。その後、1日の夜中だったか2日の夜中だったか記憶があやふやなのですが、地元の医師の方が避難所を回って「ケガは大丈夫か?」と見てくれていました。お医者さんの使命感みたいな感じで来てくださったのだと思います。

―――能登半島地震の被災現場では、ケガをされた方や倒壊した建物に閉じ込められた人が多数いるという報道もありました。Ayanoさんのお知り合いではどうだったでしょうか?

Ayanoさん:隣の家に小さいときからよくしてもらったおじいちゃん、おばあちゃんが住んでいたんですけど、家は全壊していました。そのおじいちゃん、おばあちゃんが家に閉じ込められてしまっていることがわかったのですが、やはり重たい能登瓦の家だったので、家全体が潰れちゃっていて。そこにいるのに助けに行けなくて、それが一番辛かったです……。

―――津波の恐れもあるし、二次被害もある。一般の人が誰かを救出するのは難しいですよね。苦しい状況ですね……。

Ayanoさん:そうですね。私の住んでいる地域は津波が起きてもおかしくない場所でしたから、東日本大震災以降は「津波てんでんこ」の教えを受けていました。地震が起きたときに誰かを探しに行くと津波に追い付かれてしまう、ということが防災教育のひとつになっていました。だから、そう簡単に救出することができない。とてもつらかったですね。ただ、翌日に重機を使った救出によって一命をとりとめたと聞くことができ、とても安心しました。

水の支給は3日で500mlのペットボトル1本だった

―――避難所での生活ですが、物資の届き具合や食事はいかがでしたか。

Ayanoさん:地震が起きた1月1日は準備したおせち料理が無事だったご家族がいて、そのご家族のおせち料理を何家族かに分けてもらって、私たち家族もそれを夜に食べることができました。ただ、1月2日、3日までは、1日につきみかんひとつとビスケット5枚程度、地域の方から持ち寄られた野菜で作られたスープなどが少し支給されたという感じです。近所のスーパーに残っていたパンとか、そういうのを家族で分け合って食べたりもしていました。ただ、お箸や器などは洗えず使いまわしだったので、それが少し気になったりもしましたね。

―――お箸や器は洗えなかったわけですね。やはりお水が不足していましたか?

Ayanoさん:水は全く足りなかったです。備蓄で支給されていた食事がビスケットでしたから、口の水分が持っていかれてしまうので、お水がないと食べるのはかなりしんどかったです。お水が配られたのは1月2日になってからでした。その後、支援物資が届かない状況もあり、結果的に3日間で500mlのペットボトルが1本配られただけだったので、水分が不足して足がつったり、体調に影響が出たりする人もいましたね。うがいをするのにも、ペットボトルのキャップに水を入れて、その量で口をゆすぐみたいな感じでした。

―――水の支給が500mlだけですと、かなり少ないですね。食べ物も水もかなり不足していた状態なんですね……。

Ayanoさん:避難所でまともな食事ができている人はいなかったんじゃないかなと思います。ただ、当初はみんなそれどころではなかったから、お腹が空いていることに意識が向かない感じはあったかもしれません。1月2日からヘリコプター自体は来ていたんですけど、まずは人命に関わるドクターヘリ(救急医療用のヘリコプター)が中心でした。1月2日の午後になって、支援物資を輸送するヘリコプターも来るようになりました。運ばれてきた支援物資は、3日から手元に配られ始めたようでした。

避難所の窓から見た物資輸送のヘリコプターの様子

避難所の窓から見た物資輸送のヘリコプターの様子(Ayanoさん撮影)

支援物資が届いてもすぐには配れず、使えない

―――1月2日から支援物資が運ばれてきたけど、水や食料が手元に届いたのは3日からだったのですか?

Ayanoさん:はい。支援物資が運ばれてきたのはよかったのですが、手元に届くまでにかなりの時間を要するという問題がありましたね。支援物資はほかの避難所も含めて避難者全員にいきわたる量がちゃんと確保されている必要があるので、それらを仕分けして分配しなければなりません。実際、その作業ができる人手が不足していて……。

―――運ばれてきても避難者の手元に物資がとどくまでに相当な時間がかかってしまったんですね?

Ayanoさん:私がいた避難所は、その地域でメインの避難所だったので、グラウンドにヘリが降りて、そこで物資が集められて、いろいろな集落にどれだけの避難者がいるかを確認し、分配して、そして取りに来てもらう流れだったんです。
「この集落には配布できるのに、この集落には配布できない」ということはNGなので、平等に分配するのがすごく大変なんです。

―――ほかの避難所にいる避難者の数なども把握して、避難者自身が分配する必要があると。

Ayanoさん:そうです。分配をする人手が足りないうえ、それぞれの集落が孤立してたので、正確に何人いるとか、どういう物資が必要、といった情報がわからないことも多くて。たとえば、おむつとミルクとかも届くんですけど、どこの集落に乳幼児がいるのかいないのか、正確にはわからないこともあって。

―――目の前に支援物資があるのに「すぐに配れない」「すぐに受け取れない」という状況があったわけですね。

Ayanoさん:はい。目の前に分配前の支援物資の山があっても勝手に取りにいくことはできないんです。動ける人を中心に支援物資の分配作業を推し進める流れになり、その様子をみながら、私も同じように手伝いました。私以外にも基本的には被災者みんなで力をあわせてその作業をやっていましたね。

全国から届いた物資の一部

全国から届いた物資の一部(Ayanoさん撮影)

―――「物資が全員にいきわたらない状況では、配ること自体ができない」というのは、実際にそういった場面の経験がないと認識が難しいことかもしれませんね……。支援物資をめぐっての揉めごとや、うまくいかなかったみたいなことはありましたか?

Ayanoさん:それはなかったですね。みんな「協力してやらなきゃ」という気持ちの方が強かったです。お腹もすいていたし、肉体的にも精神的にもみんな結構ギリギリな状況だったとは思うんですけど、無理やり物資を取りに来る人はまったくいなかったです。

―――大変な状況下でありながらも、秩序はかなり保たれていたと。そして4日からある程度食事ができるようになったという感じでしょうか?

Ayanoさん:そうですね。なんとか4日目くらいからカップラーメンが食べられました。コンビニ社員の方が被災地におにぎりなどを届ける取り組みをしてくださって、私の避難所にもおにぎりが大量に届いたりもしました。

―――それはよかったですね。皆さん喜ばれたのでは?

Ayanoさん:とてもありがたかったですが、孤立した集落だったので、届けるまでにすごく時間がかかってしまったのか、自分の手に届く頃には消費期限がもうあと数時間だったり、過ぎてしまったりしているものもありました。私たち若い人間は自己責任で食べましたけれど、孤立集落の場合には賞味期限のある食べ物はやはり難しいなと感じました。あと、高齢の方などは少し硬くなったおにぎりを食べるのがつらかったりもしたようです。

―――難しいですね。善意の活動が必ずしもそのまま結びつくわけではない状況もあるんですね。被災地支援における課題が浮かび上がりますね。

避難所では近所のつながりが強い味方に

―――災害が起きるとニュースなどでも報道されることがありますが、空き家に入り込んでなにか盗むいわゆる「火事場泥棒」の被害には遭いませんでしたか?

Ayanoさん:火事場泥棒が来たらしい、みたいな話を耳にすることはありました。ただ、私の住んでいる地域は全員顔見知りみたいなものでしたから、みんなが知らせあってみんなで警戒していた感じでした。たとえば夜、私の家に明かりがついていると「明かりがついていたけど家にいたの?」と誰かがそれを知らせてくれる。私の避難していた避難所には隣家のおばあちゃんや小・中学校の後輩の家族など顔見知りばかりでしたね。

―――ご近所同士の繋がりがいい形で機能したわけですね。

Ayanoさん:地方だから、みんな顔見知り。だからこそ、助け合えた部分はあったかもしれません。避難所でも「〇〇さんちのおばあちゃんがいないよ」とか「〇〇さんはどうしたの?」など気に掛けますし、例えば歯ブラシがなければ「余分にあるから」と分けるなどお互い助け合うのがあたりまえでした。

―――みんな避難所から家に必要なものを取りに行って、困っている人に分ける感じでしょうか。

Ayanoさん:そうですね。2日ぐらいから、タイミングを見て少しずつ少しずつ何か家に行くみたいなひとも増えてきました。我が家も絶対に家族全員で入らずにひとりずつで家に入って取りにいきましたね。ひとりずつ入ればもし余震が来て、家が崩れても助けを呼べますから。家にあったお正月の食べ物とか食べられそうなものがあれば持ち出して、雪に埋めて冷蔵庫がわりにして保存したりしていました。

―――お水を備蓄している家庭もあったのでしょうか。

Ayanoさん:もともと家に備蓄していた水を取りにいく人もいました。我が家では水は備蓄していませんでしたが、親戚が別の集落に住んでいてたまたま備蓄があったのを分けてもらえることはできました。ただ、避難所の人みんなに配れるほどの量があったわけではないので、水についてはご近所同士でなかなか分け合うことはできなかったですね。

被災時におけるトイレ事情

夏場のトイレはさらに衛生環境悪化の可能性も

夏場のトイレだったらさらに衛生環境が悪化していたのではないか、というAyanoさん

―――災害が起きると、トイレの問題はよく取り上げられますけれど、実際どうでしたか?

Ayanoさん:トイレに関しては最悪でした……。小学校が避難所でしたから、そのトイレを利用していたのですが、水が来ないので普段のようにトイレットペーパーを便器の中に流すのではなく、専用の入れ物に入れます。韓国などの海外にいくと、トイレの個室にゴミ箱が置いてあって、そこに使ったトイレットペーパーを入れることもありますよね。そんな感じでした。ただ、避難してくる人が増えるにつれて、そのやり方もちょっと厳しくなって、組み立て型の簡易トイレも追加されたりしました。

―――具体的に大きな問題として、どのようなことがありましたか?

Ayanoさん:当初は用を足したらその都度袋を取り換えて次の人がまた袋をつけて……という形で1回ごとに取り外しをしていたんです。避難所に入ってからすぐに使えたので、トイレ用品の備蓄があったんだと思います。ただ、取り換える袋の枚数にも限りがありますし、毎回毎回袋を取り換えることもできなくなっていきました。においも強く感じますし衛生的に厳しい状況でしたね。そんな状況だったのに、トイレに行った後も、手洗いする水もありませんし……。やっぱり水がないのは本当につらかったですね。

―――避難所生活中はずっとそのトイレを利用していたのでしょうか?

Ayanoさん:建物が倒壊していない人は自宅で用を足す人もいました。私の家も、たまたま建物の倒壊は免れたので、家のトイレを使うことはでき、なるべく家で用を足すようにしました。自宅も水は来ないので、川などから水を汲んできて、自宅のトイレに流します。ただ、1回流すのに6リットルも水が必要なんです。

―――1回流すのに6リットルも必要とは!意外と水を使うものですね……。

Ayanoさん: そうなんです。2 リットルのペットボトル3本運んできて、1回しか流せないんです。普段の生活ではまったく考えなかったけれど、厳しい現実でした。お年寄りにとってはなおさら厳しいですよね。市内の中心部などでは仮設トイレみたいなものが多分運ばれてきたりしていたんだと思うんですけど、私の住んでいる地域は孤立集落なので、そういった支援を受けられるまでにはだいぶ時間がかかりました。

妊婦さんや赤ちゃんへのサポート体制

―――食べ物や水のほか、衛生用品の確保はできていたのでしょうか?

Ayanoさん:最初の数日は食べ物とか命を繋ぐもの最優先で届いていましたが、次第に除菌シートや除菌ジェルも届くようになりました。コロナの影響か、消毒液やマスクのストックは各家にわりとあったようで、確保しやすかったです。みんなマスクで避難所に来ていましたし。避難所で感染症などが流行ってしまうと一気に広がりますから、マスクが不足していなかったのは本当によかったです。

―――たしかに避難所は人との距離も近いのでマスクがないと厳しいですね。ひとりあたりのスペースはどのくらいだったのでしょう?

Ayanoさん:実際に使えるスペースってなるとひとり1帖くらいだったでしょうか。本当に寝るためのスペースだけって感じです。

―――避難所には寝具などの備えがあったんですか?

Ayanoさん:学校にある体操用のマットを使って寝たりしている人もいました。家が倒壊していない家から寝袋や布団や座布団を持ってきたり、畳までひっくり返して運んだりするケースもありましたね。

―――たしかに、床で直に寝るよりも畳があると体は楽ですよね。

Ayanoさん:低体温症の方や妊婦さんの部屋を作るために私の実家の和室の畳も運ばれましたね。

―――赤ちゃんや妊婦さんにも配慮がされていたんですね。

Ayanoさん:妊婦さんや赤ちゃんにはみんなが気を使って優しかったと思います。支援物資も、赤ちゃんのおむつやミルクとかは最終的に行き届いている様子でした。「あそこの集落には赤ちゃんがいる」といった情報も共有しながら「〇〇さん、この前赤ちゃん産んだからこれ届けないと!」みたいな感じで……。

―――やはり、避難所の人たちがみんな顔見知りというのは、安全に生活を送るためにとても大きな要素だったでしょうか?

Ayanoさん:そうですね。みんながそれぞれ互いの家族構成を知っていたり、なんらかのつながりがあったりするからこそ、という面はあったのでしょうね……。「あの子は里帰りしている」とか、「生まれたばっかりの赤ちゃんがいる」とか。そんな話がふつうにできますからね。

―――コミュニティが持つ力は今回、Ayanoさんが避難生活を乗り切るうえで、とても重要なものだったことがよくわかります。このあと、中編ではさらにライフラインの断絶から復旧までの過程、外部との連絡も取れない環境での課題、東京に戻れるようになるまでのプロセス、とくに必要だと感じた日常品の実際など、詳しく聞いていきます。

まとめ【前編】

本インタビュー【前編】では、能登半島地震が起きた「その日」から、楽天グループ社員のAyanoさんがどのような体験をし、どのような生活を余儀なくされたのかをお伺いしました。Ayanoさん自身、この地震を経験するまでは「地震が起きることを自分ごととしてとらえられていなかった」と感じていたそうです。ぜひ、この記事を読んで災害が起きたときに皆さん自身が自分ごととしてどう考えどう行動するかヒントにしていただければと思います。

なお、次回の【中編】ではライフライン断絶後の生活から東京に戻るまでの道のりについてインタビューをしていきます。さらに、【後編】では2回のインタビューからみえきた「必要な備え」や「知っておきたい知識」について詳しくご紹介する予定です。

【中編】ライフラインを失うとどうなる?大地震後の実情と今後の備え
【後編】大規模災害への備え、私たちにできることとは?(2024年5月下旬 公開予定)

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(掲載開始日:2024年4月23日)

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